夕凪の街 桜の国 ドラマ化 原作漫画 2023.08.31 昭和30年、ヒロシマを舞台に一人の女性の小さな魂が大きく揺れる。最もか弱き市井の人たちにとって戦争とは何だったのか、原爆とは何だったのか。こうの史代が描く渾身の問題作。 レビューを見る 購入・お申し込みはこちら
夕凪の街 桜の国 (アクションコミックス) 「昭和30年、灼熱の閃光が放たれた時から10年。ヒロシマを舞台に、一人の女性の小さな魂が大きく揺れる。最もか弱き者たちにとって、戦争とは何だったのか……、原爆とは何だったのか……。」
夕凪の街 桜の国 (アクションコミックス) 「『広島』のことではなく『ヒロシマ』のことだった」と著者ご本人が解説で書いた通り、原爆投下を体験した民衆の視点を描いています。 原爆から数年数十年と経った時、あの出来事とどう距離を保ちつつ向き合っていけば良いか。一人一人の命がその地で確かに在ったのだという当たり前のことに気付かされる重みのある作品です。 「夕凪の街」被曝して10年。生きている喜びをやっと感じられたのも束の間、襲い来る現実は受け入れがたい。ただただ悲しい。 「桜の国」原爆は決して過去のものではなく、今なお身近に感じ背負い続ける人はいる。過去から学ぶことの大切さ。風化させてはいけないと思った。
夕凪の街 桜の国 (アクションコミックス) 深く、深く、沁みます。日本人は、、読むべきとさえ、想います。広島の記念館をスムースに通り過ぎることができるまで、数回、かかりました。3.11のあと、また、新たに想うこともあり、いろんな想いに、、胸がいっぱいになります。
夕凪の街 桜の国 (アクションコミックス) 広島の被爆者を描いた短編漫画。ずっと前から知っていたが、これまで手に取らずにいたものを、Amazonでセールになっていたので購入した。ー 名作だと思う。 被爆者はヒバクシャというスティグマを背負って生きている。「おまえの住む世界はここではないと誰かの声がする」のだ。そして、「桜の国」の章にもあるように、外部の者はそのことに対してあからさまに無遠慮でもあるのだ。 「わかっているのは「死ねばいい」と誰かに思われたということ。 思われたのに生き延びているということ。 そしていちばん怖いのはあれ以来本当にそう思われても仕方がない人間に自分がなってしまったことに自分で時々気づいてしまうことだ。」 ... 圧倒的な暴力の下において、当事者でないものが、そのことを分かったようにいう権利はないのだと言われているような気がする。そういった繊細なバランスの上でこの本の表現は成立しているように思う。 「夕凪の街」の章の最後、生き延びたと思った主人公の皆実が十年後に死んでいくときに語る言葉が重く響く。 「十年経ったけど原爆を落とした人はわたしを見て「やった!またひとり殺せた」とちゃんと思うてくれとる?」 人は理不尽な事件に逢った当事者の気持ちを想像することはできるけれども、当事者の気持ちを分かることは当事者になるまでできない、という事実を痛感する。 明白なことは、放射能の危険性ということで、広島と福島とを同列の文脈で語ることは決してしてはならないということだ。 そして、もちろんフクシマが「桜の国」で描かれるようなことがあってはならない、ということだ。
コメント
夕凪の街 桜の国 (アクションコミックス)
ヒロシマを舞台に、一人の女性の小さな魂が大きく揺れる。
最もか弱き者たちにとって、戦争とは何だったのか……、原爆とは何だったのか……。
」
夕凪の街 桜の国 (アクションコミックス)
と著者ご本人が解説で書いた通り、原爆投下を体験した民衆の視点を描いています。
原爆から数年数十年と経った時、あの出来事とどう距離を保ちつつ向き合っていけば良いか。
一人一人の命がその地で確かに在ったのだという当たり前のことに気付かされる重みのある作品です。
「夕凪の街」
被曝して10年。
生きている喜びをやっと感じられたのも束の間、襲い来る現実は受け入れがたい。
ただただ悲しい。
「桜の国」
原爆は決して過去のものではなく、今なお身近に感じ背負い続ける人はいる。
過去から学ぶことの大切さ。
風化させてはいけないと思った。
夕凪の街 桜の国 (アクションコミックス)
。
。
忘れてはならない記憶。
それでも一生懸命(時には軽やかに)生きる人々。
もっと何回も読み返したいと思った。
夕凪の街 桜の国 (アクションコミックス)
日本人は、、読むべきとさえ、想います。
広島の記念館をスムースに通り過ぎることができるまで、数回、かかりました。
3.11のあと、また、新たに想うこともあり、いろんな想いに、、胸がいっぱいになります。
夕凪の街 桜の国 (アクションコミックス)
ずっと前から知っていたが、これまで手に取らずにいたものを、Amazonでセールになっていたので購入した。
ー 名作だと思う。
被爆者はヒバクシャというスティグマを背負って生きている。
「おまえの住む世界はここではないと誰かの声がする」のだ。
そして、「桜の国」の章にもあるように、外部の者はそのことに対してあからさまに無遠慮でもあるのだ。
「わかっているのは「死ねばいい」と誰かに思われたということ。
思われたのに生き延びているということ。
そしていちばん怖いのはあれ以来本当にそう思われても仕方がない人間に自分がなってしまったことに自分で時々気づいてしまうことだ。
」
... 圧倒的な暴力の下において、当事者でないものが、そのことを分かったようにいう権利はないのだと言われているような気がする。
そういった繊細なバランスの上でこの本の表現は成立しているように思う。
「夕凪の街」の章の最後、生き延びたと思った主人公の皆実が十年後に死んでいくときに語る言葉が重く響く。
「十年経ったけど原爆を落とした人はわたしを見て「やった!
またひとり殺せた」とちゃんと思うてくれとる?」
人は理不尽な事件に逢った当事者の気持ちを想像することはできるけれども、当事者の気持ちを分かることは当事者になるまでできない、という事実を痛感する。
明白なことは、放射能の危険性ということで、広島と福島とを同列の文脈で語ることは決してしてはならないということだ。
そして、もちろんフクシマが「桜の国」で描かれるようなことがあってはならない、ということだ。